初心者のためのビジネススキル入門

メンターの教え2:他者貢献できるものが私にはありません

あるとき、私はふと「自分は他者貢献を通じて、豊かになる!」なんて息巻いているけど、
本当に自分は他者貢献できているんだろうかと不安に襲われました。

他者貢献することが成功するために必要な事であるというのは、どんな自己啓発書にも載っている事実だけど、
そもそも『私みたいなちっぽけな存在が、人様に貢献するなんてことが出来るのかな・・・。』と
自信を無くしてしまっていました(かなりネガティブ思考)。

『大丈夫!自信をもって良いんだよ!』そんな言葉を言ってほしくて、
私はメンターのもとを訪れました。

彼はいつも通りの温かい笑顔で私を自宅のリビングに迎え入れてくれました。
彼の笑顔を見ると、「ああ、きっと私は大丈夫なんだ」と安心してしまう自分がいるのでした。

≪メンターへの質問≫他者貢献できるものが私にはありません

たわいもない世間話が終わると、私はさっそくメンターに私の悩みを話しました。
他者貢献をしようと思っているが、実感が持てないこと、
そもそも他者貢献ができるだけの価値が自分にあるのか自信が持てないこと・・・。

『さぁ!私の悩みを話しました!温かく温かく勇気づけてくださいませ!』
私はそう心の中で叫びながら、メンターの言葉を待ちました。

予想に反して、メンターは私の話を聞き終わると急に笑い出しました。

はっはっっはっ!
君は完全に自己啓発書とかビジネス書の読みすぎや!
頭ばっかりでかくなって、全然動けなくなっているってことやろ?
ほんまに他者貢献してる人は、四の五の言わずにやることやってるで。

僕の好きな言葉に
「人間には出来る事しかできない。だから、いま出来る事をやろう」っていうのがある。

ほんまに人の役に立っている奴は、この言葉の通り、悩むことなく今出来る事を淡々とやってるんやで。

てっきり「大丈夫。君はよくやってるじゃないか」的なことを期待していた私は、
予想以上に鋭い突っ込みをされて、心が折れそうになった。
そりゃあ、凹むことなく行動を淡々を積み重ねることが出来れば苦労しないさ・・・。
でも、ビジネス書を読みすぎて頭でっかちになっているという指摘には納得出来なかった。

私の納得いかないというムッとした表情をチラッと見ると、
メンターは笑った顔から、いつもの優しい表情に戻ってゆっくりと話を続けた。

ごめんごめん。
まぁ、厳しい言い方になってしもたけど、君が躓いている所もなんとなく分からんでもないで。

今のビジネス書の主流では
『「Give & Take」じゃなく「Give & Give」だ』とか
『貢献(コントリビューション)をするから、他者から与えてもらうことが出来る』とか言われてて、
最終的に、
『あなたも他者に出来る貢献を始めてみましょう!』ってそそのかされる。

君はこの言葉を真に受けて、『自分に出来る他者貢献は何なんだろう?』って悩んで、
しまいには『自分には他者の役に立つようなことは何も提供できない』って結論に行きついてしまってるんやろ?

メンターは私の状況を見事に言い当ててくる!
彼には、なんでもお見通しなんだろうか(汗)

正直に告白すると、私が他者貢献の意義を知ったのはビジネス書を読んだからのが始まりであり、
ビジネス書の中で『あなたも他者貢献しなさい』と指摘されていたから、私も他者貢献を意識するようになった。

そして、「よーし!私も他者貢献するぞ!!」なんて調子いいことを言い出したものの、
そこで立ち止まってしまっていた。

ビジネス書には『他者貢献は素晴らしい。君もやりなさい』とは書いてあったけど、
実際にどんな風に他者貢献を始めればいいのかが私には分かっていなかった。
今になって考えてみれば、メンターは私のそんな状況を感じ取って、
『ビジネス書読み過ぎて、頭でっかち』と表現したのかもしれない・・・。

僕が思うにな、『貢献』って言葉が物事をややこしくしてると思うわ。

だってな、そこに『貢献』があったかどうかなんて、貢献”された”人にしか分からんやん。
貢献”した”人からしたら、自分の行いが貢献になったのか、それともただのおせっかいなのか分からんもんな。

つまり、行動の結果を自分ではコントロールできなくて、常に、そこに成果があったかどうかは他人の判断に依存してしまってるんよ。

せやから、いつまでも『自分は他者に貢献できているんだろうか?』って答えのない疑問を持ち続けるねん。
んでもって、最悪は『私には他者貢献なんてできません』って結論に行き着くんよ。

正直、「えっ!?言葉ですか??」とはじめは思った。
そして、一回聞いただけでは、よく理解できなかったので私は何度かメンターに説明したもらいました。
つまり、『貢献』という観点で物事を見ている限り、貢献が行われたかどうかの効果判定は他者がするので、
自分に主導権がなくなってしまう
「私は他者貢献できているのか、私に他者貢献できるものはあるのか」を自分に質問している限りは、
答えが出ないし、出たとしてもネガティブな答えしか出てこないということだと私は理解した。

 

他者貢献の『貢献』っていう言葉の定義が、物事を難しくしている・・・
そんな発想は、私にはないものだったので、ちょっと驚いた。
と同時に、この人は、よほど賢いか変人(偏屈)かのどちらかかもしれない・・・とちょっとだけ思ってしまいました。

『貢献』って言葉が状況を難しくする・・・それなら、どう考えればいいんだろう?
私の中に生まれた疑問を感じ取ってか、メンターは話を続けた。

じゃあ、どうすれば良いのか?

僕は『貢献』ではなく『応援』って言葉を使うようにしたらいいと思ってる。
他者貢献』じゃなくて『他者応援』ってことやな。

「他者を応援したかどうか」は、自分の主観にかかってるやろ?
自分の行いが『貢献であったかどうか』は、自分には分からんけど、
自分が誰かを『応援したかどうか』は、自分で分かる
せやから、行動の結果を自分でコントロールできるようになり、行動の主導権を握ることができるんや

まぁ、難しい話は置いといても、
「誰かに貢献しよう」って思ったらハードル高いけど、
「誰かを応援しよう」やったら出来そうな気がしてきいひんか?

たとえば、どっかで災害があったとして、そこでたくさんの人達が困っている状況があるとするやろ。
そんな時に、『私はどんな貢献ができるだろう?』って考えてしまうとな、
「私には、現場に行ってボランティアを出来る時間や余裕がない・・・。」
「困っている人に何か提供して喜ばせることなんて、思いつかない・・・。」
となってしまって、思考停止してしまうねん。

でも、他者応援の視点に立つとな、
『今の私に出来る最大限の応援は何だろう?』って考えることができるやろ。
その結果、
「じゃぁ、私はいつもはしない募金を500円してみよう」とか
「現場で困っている人に励ましの手紙を書こう」とか思いつくことが出来るようになるねん。

貢献』と『応援』・・・。正直、私は「たかが、言葉の使い方が変わっただけなのでは・・・?」と思ってしまう。
でも、メンターはしきりに『行動の主導権を握る』ことが出来るかどうかは言葉の使い方で変わると熱を込めて話してくれた。

私は、言葉を変えることで生まれる変化のカラクリや「行動の主導権を握る」ことの大切さを
完璧に理解できたわけではないけれど、メンターがここまで熱っぽく話しているのだから、
きっと大事なポイントなんだろうなと感じた。
(早く、その意味が分かるように、自分自身の精神性を上げていかねばとも思う)

さて、ここでメンターは「貢献」の代わりに「応援」というキーワードを持ち出してきた。
彼の言う通り、貢献っていうとプレッシャーを感じてしまうけど、応援なら自分の身の丈に合わせて出来そうな気がする。

もしかしたら、このプレッシャーを感じるかどうかの分かれ道が、
成果の効果判定を『相手』にゆだねるか、『自分』に持っておくかなのかも知れない。

 

でも、自分の中である考えが浮かんでくる。
他者応援って結局は自己満足なのではないか。やはり他者貢献を目指すべきではないのか。
私は、そんな疑問をメンターに聞いてみた。

確かに、
「500円の募金にどれだけの意味があるねん」
「励ましの手紙にどれだけの意味があるねん」って問われたら、
そこに実質的な価値を見出すことは難しいかもしれんし、

「結局、それは自分の自己満足なだけじゃないか」と言われれば、そうかもしれない。

でもな、誰かを応援している人のことを誰も批判することなんてできないんや。
たとえ、応援している行為がとるに足らないことだとしても、
「私には貢献できるものがない」って足踏みして、何もしない奴よりよっぽどマシやと思うで。
ほんで、こんな意地悪なこと言ってくる奴に限って、何もしてない奴やったりするしな。

少なくとも、行動した人には『私は、今の私にできる最大限の応援をしたんだ』という想いが心に残るわ。

それからな、僕は他者貢献を否定してるのと違うで。
他者貢献は素晴らしいけど、『他者貢献』という言葉に引きずられて身動きが取れなくなっているのなら、
『他者応援』という視点に切り換えてみたらどうですか?って提案しているだけなんや。

メンターは他者貢献を否定しているのではなく、
視点を切り替えて物事が見れるように言葉のトリックを教えてくれていたのだと、私はここで理解することが出来た。
そして、他者貢献に引きずられて動けないでいる自分より、
実質的に価値が小さくても『応援』の観点から、行動を起こしている人の方が遥かに進んでいるということも納得できた。

さらに言えば、『こんな意地悪なこと言ってくる奴に限って、何もしてない奴やったりするしな』という言葉が
自分に向けられたような気がして、心が苦しかった。

話がそれたから、戻そうか。
君は、『自分の大好きな事を通じて他者に貢献して、経済的に豊かになりたい』って思って行動してる。
でも、その結果、他者『貢献』って言葉に引っかかってしまって、自信を無くしてる。

それなら、『貢献』を『応援』に代えて、『自分の大好きな事を通じて他者を応援して、経済的に豊かになりたい』と思い直してみ。

そのうえで、自分が大好きな事を使って、どんな応援ができるのか、どんな人を応援することが出来るのかを考えて、
「私はこんなこと、あんなことを通じて、あなたのことを応援できますよ」とメッセージを発信するんや。

メンターが話題を自分のことに戻してくれたおかげで、
私はより深く『応援』という言葉を使うことのメリットを感じることが出来た。
うまくは表現できないけど、『どんな応援ができるんだろう?』と自分に問いかけてみると、ワクワクする感覚がある。
また、ワクワクする感覚に引っ張られて、『こんなこともできる!』、『あんなこともできるかも!?』とアイデアが溢れ出してくる!
『貢献』しようと思っていた時に感じていた、『人のお役に立たなくちゃ』とか『果たして本当にお役に立ててるのか』という
重た〜い肩の荷が下りたような気がした。

この感覚を伝えたくてメンターは私に、『貢献』と『応援』の話をしてくれたのかなとも思った。

彼は私の頭の中で考えがグルグル回って、理解が深まっていくのを待ってくれた。
そして、私が再び話を聞く準備ができたのを見て、こんな話をはじめた。

あるお金持ちがな、BBQ大会をしやはったんや。
(※関西ではなんでも大会をつける。BBQ大会、焼肉大会、たこ焼き大会・・・。)
友達はもちろん、友達の友達も、そのまた友達もいろんな人をBBQ大会に招待しやはってん。
「来たい人は誰でも来てください」ってな。

参加自体は誰でもOKなんやけど、ただ一つ条件があったんや。
それは『当日は、場所を提供しますが、食材もBBQの器具も一切用意しません』というものやったんや。
要は、場所は提供するけどBBQしたり、みんなで楽しく過ごすための準備は各人にゆだねられたわけやな。

当日、100人ちかくの人がBBQ大会にやってきた。
BBQをやるんだからと、自分で選んだ特別な肉を持ってくる人、自分の家で栽培している野菜を持ってくる人がたくさんいた。
BBQのコンロ・炭を持ってくる人もいた。
アウトドアが得意な男性は、BBQを始められるように火の起こし方を参加者に教えて回った。

その他には、
「私はBBQの食材は持ってこれなかったけど、クッキーを焼くのが得意なんで、みんなに喜んでもらいたくて持ってきました!」
っていう人もいた。

同じように手料理を持ってきて他の参加者に振る舞う人、ギターの腕前を披露する人、
踊りを踊る人、隣に座った女性の話を親身に聞いてあげる人なんかもいた。

美味しい紅茶を淹れることが出来る女性もいて、先ほどのクッキーを焼いてきた人と意気投合して
ちょっとしたお茶会がBBQ会場の一角で開かれることにもなった。

驚くべきことに、当日のBBQは食材も器具も一切不足することはなかった。
それだけじゃない、BBQはめちゃくちゃ盛り上がったんや。
皆がBBQ大会を作り上げるために自分にできるモノを持ち寄ったら、完璧な調和がとれた世界が生まれたわけやな。

山田君、想像できるか?
それぞれが、自分に出来ること、自分の個性や得意なことを持ち寄って作られるBBQ大会の様子が。
そこでは場所しか提供されていないにも関わらず、完璧で幸せな世界が形成されてるんやで。
すごいと思わへん?

クッキーを焼くことも
美味しいお茶を淹れることも
ギターを弾くことも
踊ることも
人の話を聞いてあげることも

それの行為だけを切り取って見てみても、あまり意味を持ってない。
でも、このBBQ大会においては『自分の行いを通じて、BBQを盛り上げたい。みんなを喜ばせたい』っていう想いがあった。
だから、それぞれの行為が、めちゃくちゃ幸せなBBQ大会を作るのに役立ったんよ。

その場に参加した人はみんな
「皆を盛り上げるため、皆を喜ばせるために、私にできることは何かなぁ」って考えて行動したんやと思うで。

その人達は、皆がBBQ大会を楽しむために、自分にはどんな『応援』が出来るんだろうって考えてはったんやろうなぁ
って僕は思うねん。

結局はみんなが出来る『応援』の形を持ち寄ったら、完璧な調和のとれた世界が創れるんや。

みんなのできる『応援』の形が一つ一つパズルのピースになって、埋まっていく感覚やな。
ピース一つとってみたら、意味は分からんけど全部が合わさった時に、美しい世界が完成するんや。

完成した美しい世界を眺めて、ピースをもう一度眺めてみるとな、
「あー、このピースがあるから、あっちのピースが意味を持つんだなぁ」
「なるほど!この2つのピースが繋がるから、さらにこっちのピースが全体の中で重要になるんだな」と見えてくる。
そうなったら、ピース一つ一つは世界全体に対して、『貢献』していることになるんやで。

僕はな、このBBQ大会の話を聞いて、めっちゃ感動してん。
「あー、これが本来の世界の在り方なんだろうなぁ」って思ったし
『これからの世の中はこうなっていくんやんぁ』って痛感したわ。

そこからやなぁ、僕自身が『他の人を応援する』生き方を意識するようになったのは。

私はメンターの話を聞きながら、
みんなが自分の『応援』の形を持ち寄って、作りだす世界に思いをはせていた。
それぞれの個人が自分のやりたい方法で、全体の中でお互いに貢献しあっている。
それって、すごく素敵だ!!

話を聞いているとBBQ大会に集まった人たち笑顔が目に浮かぶようだった。
ギターを弾く人
クッキーを振る舞う人
お茶を入れてあげる人・・・

そこにいるみんなが笑顔で、とってもワイワイとしていて笑い声もあちこちで聞こえてくる
そんな情景をリアルに感じることが出来た。

メンターからこの話を聞かせてもらって、『貢献』も『応援』も実は同じものなんだろうなと思った。
結局は、『応援』を行った結果、それが誰かへの『貢献』になるということか。
ただ、『貢献』はパズルのピースが完成した時に初めて、目に見えてくるものなので
いきなり『貢献できたのか』という結果だけを追い求めても見出すことができず、苦しむことになるのだ

普段はぼけーっとしている私も、メンターに影響されて、なんとなく哲学者っぽくなってしまった。
そして、いろいろ考え過ぎたのかだんだんと、頭がぼーっとしてきた。

メンターは、そんな私を見てにこりと笑うと、
優しい声で「いろいろと話して疲れたかな?コーヒーでも淹れよか?」と言ってくれた。

 
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